グイノ・ジェラール神父の説教


C年
 
待降節

四旬節



待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の誕生


(聖家族の祝日は
祝いのぺーじへ)

四旬節第1主日
四旬節第2主日

四旬節第3主日
四旬節第4主日

四旬節第5主日


               待降節第1主日      2012122日   グイノ・ジェラール神父

       エレミヤ33,14-16  1テサロニケ3,12-4,2   ルカ21,25-28,34-36

    第一の待降節の日曜日に当たって、私たちはクリスマスの喜びへと進み始めます。それなのにどうして今日の典礼は、私たちの喜びを奪い恐ろしい未来を約束する朗読を提案しているのでしょうか。 この朗読を通して教会は、冬眠状態から私たちを抜け出させたいのです。 将来の見通しのない日常生活の中に私たちが嵌り込むことがないように教会は望んでいます。 頭を上げて私たちは自分の鼻の先よりも遠くを見なければなりません。

    昔、司祭たちがラテン語で聖務日課を祈っていたとき、待降節の第一の日曜日の前夜に、この言葉で祈り始める習慣がありました。 「遠くまで見ることで、私は神の力が来るのを見ています。」 確かに神の愛の力が私たちに足早に近寄って来ます。 そういう訳で人々を守るため、また危険を警告するために、私たちは夜に目覚めている見張りの人にならなければなりません。 キリストが言われるように頭を上げて遠くまで見ながら、信仰と希望のうちに目覚めている人となりましょう。

    危機に襲われているこの世界に対して、イエスが私たちに警告をし、それに対して立ち向かう方法も与えます。 私たちが古き良き時代を懐かしむことがないように、イエスは私たちを招きます。 実を結ばない郷愁の思いで自分自身を実らない不毛の悔しさを、私たちは自分の内に養ってはいけません。 その為にイエスは頭を上げなさいと願います。 というのは、私たちは日常生活の出来事の中に、イエスが約束された新しい世界の到来のしるしを見分けるように召されているからです。 イエスの国が日ごとに建設されるので、私たちは見張る人のようにならなければなりません。 思いがけない出来事から出る恐れが、私たちを麻痺の状態に落とさせないように、そしてこの世への心配事が眠気をさないように気を付けましょう。

    私たちが教会と共に信仰と希望の内に歩み、 待降節に当たって、神とお互いに結び合った絆をもっとしっかり結び合わせます。 信仰年は神の無限の愛を自分の内に歓迎し、それについて黙想するように私たちに勧めています。 神の無償の愛は、心の奥深くから私たちを変化させます。 使徒パウロは次のように私たちを励まします。「また、主があなた方を互いの愛、そしてすべての人々への愛で満たし、その愛を満ち溢れるものにしてくださいますように。その結果、聖なるものとして咎められることなく、わたしたちの父である神の前に立つことができますように」(フランシスコ会訳 1テサロニケ3,12-14

    
絶えず誘惑と試練が私たちを襲ってきます。 これに反抗するためにルカがイエスから頂いた勧めを私たちに打ち明けました。 誘惑に対抗するため試練を克服する為に私たちは祈らなければなりません。 祈りは、信仰と希望の内に全ての誘惑と試練を耐え忍ぶことを可能とします。 祈りはイエスの前で立つことをさせます。 祈りによって私たちを救う神の愛の力を遠くから客観的に見る恵みを与えます。 祈りによって私たちを全人類に役に立つ見張りの人、信仰の内に目覚めている人にします。

    祈りは起こってくる全ての出来事を一般的な考えと違った見方の恵みを与えます。 暗闇の中にあっても、光のうちに居ても、祈りは私たちが神と人々とを結んだ絆を強く保つ恵みを与えます。 祈りは人の心に希望と期待の泉を湧きださせます。祈る人はありのままに自分の人生の中に思い通りになることも、ならないことも、神に打ち明けます。 祈るとはある意味で自分を忘れること、それは神のことをもっと考える為です。 祈りはまた神の赦しを受けること、そして人々を赦すことも教えます。 私たちが自分自身を卑下したりすることを防ぐのです。 祈ることによって人が立派に生きることと同時に、どのような形を借りようとも あらかじめ自分の死を承諾することを教えます。 実際に祈る人は絶えず暗闇から光へ、死から命へと過ごすことを学ぶ人です。

    待降節の間に個人的な祈りと共同体的な祈りの重大さを再発見しましょう。 ご自分の約束を私たちの為に私たちの内に実現するように、主は足早に近寄って来ますので、頭を上げて出来るだけ遠くまで見ましょう。 アーメン。

                 

             待降節第2主日C年    2012129      グイノ・ジェラール神父

           バルク5,1-9  フィリピ1,4-6 8-11  ルカ3,1-6

    ルカは洗礼者ヨハネの使命の始まりを、イスラエルの民の歴史と当時の地理の中で書き記します。 神の言葉は決して目的の無いものではなく、具体的な状況の中に生きている具体的な人々に言われているからです。 今日の福音の始めに出てくる歴史的な人物たちは、イエスと洗礼者ヨハネに全人類の歴史の中で適切な場所を与えます。 神は一人の人間になることによって、全人類が神に相応しい未来を持ち、一人ひとりが聖とされています。

    待降節第2の主日の3つの朗読で一致する言葉は「道」と言う単語です。 預言者バルクはバビロンへ追放された人々の長い歩みを述べています。 喜びと神の栄光の光の内に神に導かれた彼らは、勝ち誇った様子でエルサレムに戻ります。 使徒パウロはフィリピの教会の人々に「主の日に向かって躓くことなく歩むように」と強く勧めます。 最後に砂漠の中で洗礼者ヨハネが「全ての人が神の救いを見るために、主の道を整えるよう」に叫びます。

    確かに、私たちが出発するようにと神の言葉は招きます。 信仰とは前進する旅路であると同時に、過去、現在、未来のうちに行われている旅路です。 教会は信仰年を決めることによって、私たちが生きている限り、信仰は私たちの歩みの意味と目的を指し示していることを理解させようとします。 信仰は決して揺るぎない確実さのうちに私たちを置いて、固定するものではありません。 新しい体験や思いがけない出来事に絶えず対決させられている信仰は、神によって決められた見知らぬ ほかの所へ、私たちをいつも遣わします。 遺憾ながら、キリスト者の信仰の歩みは飛躍と発見、また停止と後戻り、更には過ちも伴っています。 大切なことは目的に辿り着くまで諦めずに、繰り返し出発することです。 神の言葉を聞くことによって、教会の秘跡を受けることによって、キリスト者の信仰は絶えず新たにされ若返ります。

    「全ての人は神の救いを見る」と洗礼者ヨハネが宣言した言葉を、善意の人々に目に見える具体的な形で示されました。 即ち、救いの言葉を見ること、聞くこと、触ること、愛することが出来る理由は その言葉が人間になって現れるからです。 神の御言葉であるイエスは、全ての世紀に渡って、人間の歩む道で平和、喜び、和解を全ての人々に告げ続けます。 洗礼者ヨハネは、聞こうとする人々にそれをはっきりと叫びます。私たちの人生の砂漠の中で、完全に整えられた道はありませんが、神が個人的に一人ひとりに呼びかけます。 この声はありのままで私たちが持っている物の全てで、主の道を整えるように招きます。 つまり私たちの持っている力や弱さ、苦しみ、喜び、希望、悔いで私たちはその道を整えましょう。

    神は私たちが自分の力を超える無理な事は絶対に要求されません。 私たちが神の声を聞いて、喜びと平和の神のメッセージに対して心を閉じないようにと、神は私たちをありのままの姿で愛しながら願います。 神は急いで私たちを迎えようと今も走っています。 それは私たちにご自分の愛と命の豊かさを与えるためです。 待降節は 活動的な期待の時であり、祈りと反省の時でもあります。 私たちを迎えるイエスに向かって歩むなら、私たちは自分の短所、過ち、罪、そして自分の内に神の愛を妨げている全ての物事を認めることが容易に出来ます。

    待降節に当たって、神の方へ歩む事によって、私たちは回心したいという望みを神に表しているのです。 回心するとは、神が日毎に自由に私たちの内に働かれることを承諾する事です。 そのことをよく理解した使徒パウロは、次のように言いました。 「あなた方の中で良い業を始められた神が、それを完成してくださる事を私は確信しています」と。 私たちの顔にキリストの顔が反映しない限り、神も聖霊も私たちの内にその目的を達成するまで、ご自分の働きをめられないでしょう。 私たちの信仰生活が、全ての人にご自分の栄光を現すようにと神は要求します。 預言者バルクが約束したように、待降節は「神の栄光に包まれ、安全に歩む」ことを教えています。 ですからイエスを歓迎する準備をするために、神が私たちの内に心の知恵を呼び起こさせるように、そして私たちが神ご自身の命に与る事が出来るように、喜びの内に切に願いましょう。 アーメン。

                 

          待降節第3主日    20121216日    グイノ・ジェラール神父

            ゼファニア3,14-17   フリッピ4,4-7   ルカ3,10-18

    預言者ゼファニアが自分の書を書いた時、中東アジアの状態は極めて混乱している時代でした。エルザレムの国民が喜びの叫びを叫ぶようにと、ゼファニアは皆に勧めています。 預言者ゼファニアは、敵に対する完全な勝利を告げずに、ただ神が敵を追い払うことを約束します。 彼は神の力によって敵が帰国することを述べています。 エルザレムの人々の喜びは、敵の敗北の中にあるのではなく、むしろ戦争を続けることを拒否する決定の中にあります。

    フリッピの教会の人々にパウロが手紙を書いた時、彼は牢獄の中に閉じ込められていました。 裁判の結果を待っているパウロは、一生懸命にフィリピの人々が喜びをずっと抱くように忠告します。 特にパウロは次のことを断言します。 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」と。 とても難しい状況の生き方の中に初代教会の信徒たちが居るにも拘わらず、パウロは皆が不安を抱かずに平和のうちに生き続けるように切に願います。

    確かにキリスト者が持っている喜びは、人生の思いがけない出来事とは独立しています。 主が自分の内に、自分と共におられると信じるキリスト者は、他の誰一人よりも物事をもっと深く感じているのです。 試練と出会っても、キリスト者は冷静な人です。 また、どんな状況の中に置かれていても、それが苦しい状態であっても、“主がとても近い”という確信を持ち続け、そして深い喜びを抱いて主ご自身が自分を支えていることを明らかに示す人です。 私たちがこの世に与える最も素晴らしい証しとは、人生における私たちの冷静さと広い心の証しです。
  
    民はメシアを待ち望んでいたと聖ルカは書きました。 洗礼者ヨハネが与える答えは全て具体的であり、問いかけた人々に対してぴったりの答えです。 主の道を整える為に何をすれが良いかを聞く人々に、洗礼者ヨハネは3つの具体的な勧めを与えました。それは、分かち合うこと、盗まないこと、そして暴力を避けることです。 洗礼者ヨハネは、人々に与えるべき尊敬について特に強調しています。 私たちに要求されているものは、分かち合い、正義、柔和、非暴力です。 非暴力の人となるために努力することによって、喜びと平和を深く味わうことが出来るのです。

     正義を持って何かを行うとき、待降節の神秘の中心にある喜びの貴重な賜物を私たちは受け止めることが出来るのです。 平和がいつも喜びを伴い、平和と喜びが私たちの内におられる聖霊の現存のしるしです。 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。」とパウロは願っています。 それではなぜ、私たちのミサ祭儀はそんなにつまらなくて寂しさをもたらしているでしょうか。 私たちが神と共に居るのに、ミサがとても面倒臭さそうに見えるのは確かです。 日常生活に於いて私たちが信仰の喜びを示すなら、きっと日曜日のミサ祭儀を通してその喜びを示すことが出来るでしょう。

     残念ですがこの頃大勢の人が、喜びと幸せを満足のうわべだけの感情と混同しています。 神が与える喜びは言い表せないとても深いものであり、試練に対してその喜びは力と信頼の泉となります。 洗礼者ヨハネとイエスの誕生のお告げからキリストの復活の証しまで、神の喜びが福音書全体に満ちています。

     預言者ゼファニアが「喜びなさい、主はおまえのただ中におられます」と宣言します。洗礼者ヨハネは声高らかに「メシアはあなた方のただ中におられます」と叫びます。 最後にパウロは断言します「主はとても近いから喜びなさい」と。 喜びへのこの全ての呼びかけを前にして、一体私たちは何の反応も示さずにいられるのでしょうか? 喜びは命令されるものではありません。 人が信仰を選ぶように喜びをも選ばなければなりません。 信じることと喜ぶことを選ぶのは、それは知られていない未来の内に入ることです。 つまりイエスともっと親密に出会うチャンスを選ぶことです。 喜びを選ぶとは、神ご自身の神秘を味わおうと決定することです。 ですからクリスマスの恵みを味わう為に、また自分の内に神の愛する現存を感じる為に私たちは、信仰を持って、ためらうことなく喜びを選びましょう。 アーメン。

                 

           待降節第四主日C年     20121223日  グイノ・ジェラール神父

              ミカ5,1-4a  ヘブライ10,5-10  ルカ1,38-45

    クリスマスの喜びを味わう前に、先ず預言者ミカの言葉に耳を傾けましょう。 「神の力が地の果てに及びます。 神こそ、まさしく平和をもたらす方です」と。 父なる神の約束を実現する為にイエスがこの世に来られた事を、聖パウロは思い起こさせます。「御覧ください。 御心を行うために、私は来ました」と。 マリアのエリサベト訪問の出来事を通して聖ルカは、二人の女の内に実現される神の約束が与える喜びについて語っています。 声を高らかにしてエリサベトは「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と叫びます。 マリアはエリサベトに答えます。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と。 私たちは絶えずイエスの体をいただいているので、神と一致して生きている喜びを、私たちが世界の人々に叫ぶ覚悟をしているでしょうか?

    6ヶ月前にエルサレムの神殿で、エリサベトの夫であるザカリアが受けた約束はエリザベトの胎内で赤ちゃんの姿になりました。 マリアがエリサベトに近寄った途端、エリサベトの胎内の子ヨハネは、喜び踊りました。 三日前に、大天使ガブリエルからマリアがいただいた約束も彼女の胎内で肉となり始めました。 母マリアを通してイエスは、近づく全ての人に聖霊の賜物を与え、そして言い表せない喜びで彼らを満たしているのです。 この神秘は、今も教会の中でずっと実現し続けています。私たちはいつも母マリアを通して、イエスから神の喜びと聖霊の賜物を受けているからです。

    今日、マリアとエリサベトは声を合わせて次のように私たちに打ち明けます。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました」と。 また彼女たちは 私たちに呼びかけます。 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信ずる人は、なんと幸いでしょう」と。 私たちは皆、自分の信仰を述べ伝える難しさをよく知っていますし、そしてまた、それを体験します。 私たちは神と親密な関係の内に自分の信仰を育て、それを活かそうとしている事を親戚の人や職場の仲間たちに打ち明ける事は、本当に難しいです。 しかし、それは神が私たちに委ねた貴重な使命です。

    マリアとエリサベトは私たちの信仰の模範です。 神の内に盲目的な信頼を置かないのなら、信仰生活はとても難しくなるとマリアとエリサベトが私たちに教えています。 同時に、他の人々を信頼しない限り、自分の信仰を宣言するのも至難の業だとマリアとエリサベトは忠告しています。 生きるには、勇気が必要です。 信ずるには、愛が要求されています。 勇気をもって日常生活の試練を乗り越える為には、信仰、信頼、愛が避けられません。 確かに、信ずる事は喜びの泉であり、誰もそれを奪うことが絶対出来ません。

     クリスマスを数時間後に控えて、マリアとエリサベトの生き方について考え、黙想するのはとてもよい、相応しい事です。 母親になる事によって、神の救いの業に参加したマリアとエリサベトの喜びを共に分かち合って、私自身のものにしましょう。 マリアとエリサベトと同じ様に神の言葉を信じる事、心の中に神の言葉を思い巡らす事、そしてその神の言葉で自分の信仰を養い強める事を学びましょう。 「キリスト者」と呼ばれている私たちは、まさしくマリアのように自分の内にキリストを抱いている人です。 確かに私たちは、自分の内に神の神秘を持っています。 ですから、大勢の人が救いの神秘とクリスマスの喜びの内に入り、それに与るように、彼らの前で私たちの喜びを輝かしましょう。 アーメン。

                 

                主のご降誕(夜半)   20121224日  グイノ・ジェラール神父

           イザヤ62,1-5  テトス2,11-14  ルカ2,1-14

    ご降誕の喜びを申し上げます。 暗闇の中を歩んでいたイスラエルの民は、大きな光を見ました。 この光はクリスマスの光でした。 詩篇(36編10節)の招きに応えて、私たちはこの光の内に真の光であるイエス・キリストの神秘をゆっくり見てみましょう。 ご自分の似姿に人間を造られた光輝く神は、貧しい馬屋の暗闇に、一人の人間としてお生まれになりました。 この出来事を知らせた天使たちは、非常に驚きながら神に感謝しました。 私たちも感謝しながら驚きましょう!

    私たちを救うために命の光である幼いイエスは、死の暗闇の中にご自分を完全に埋めました。 「隣人を自分のように愛しなさい」と言われた神が、私たちのために死ぬほど、永遠の昔から私たちをご自分のように愛して下さいます。 全ての時、あらゆる時代を支え導く永遠の神が、私たちの歴史と時代の中に生まれ、それを「恵みの時」となさいました。 恵みに満ちておられる神は、幼子の内にご自分の栄光を現わそうとします。 今夜、主に感謝して一緒に神の謙遜の神秘を悟り深く味わって、さらにクリスマスの光を浴びて輝きましょう! キリストの誕生を通して、神が啓示する全ての神秘が 私たちの信仰を照らし強めますように。

    イエスのご降誕の中に隠されている、様々の光輝く恵みや喜ばしい知らせを心に留め、そして、神について私たちが持っている誤った偏見を捨てましょう。 もし、あなたが神は遠い存在で雲の上にいると思っているなら、今夜、幼子となった神を自分の胸に抱きしめ、あなたを愛している神の心のときめきを確かめなさい。もし、あなたが神は厳しくて人を無視していると感じているなら、今夜、あなたの上に注がれているイエスの穏やかさと彼の愛の眼差しをよく見なさい。 神は石の心ではなく、限りなく愛する心を持っておられることを悟りなさい。 もし、あなたが神は人の不幸に対して無関心であり世界の災いと悪のあらゆる形に対して無力であると思い込んでいるなら、今夜、無罪の幼子を殺そうとするヘロデ王の暴力を思い出しなさい。 そして生涯に渡ってイエスを深く傷つけた妬み、侮辱、受難の苦しみ、十字架上での恐ろしい死に方をよく思い出しなさい。 あなたの永遠の幸せと全ての人を救う目的で、ご自分の命を捧げるために一人の人間としてお生まれになったイエスをよく御覧なさい。 今夜、全能の神はあなたのために弱くなり、栄光に満ちた神はあなたのために貧しくなり、永遠の命である神はあなたが復活することが出来るように、人間の体で死ぬことを選びました。 クリスマスの光が神の愛の神秘を啓示させるのは、あなたが光の内に光を見るためです。

    クリスマスの夜の暗闇に 既に輝いている曙の光を見分けましょう。 母マリアの心で神の愛と救いの神秘を受け止め黙想しましょう。 イエスの誕生のお蔭で、私たちは神の子の資格を受けました。 その結果、私たちは「神の愛する子」、「光の子」と呼ばれ、「私たちの命はキリストと共に 神の内に隠されています」(コロサイ3,3)。 神の似姿に造られた私たちは 神の心の現れであり、従ってキリストがなさったと同じように私たちも憐れみと慈しみを自分の周囲に住む人々に示さなければなりません。 確かに私たちは主イエス・キリストと一致して 神の愛の証人となる使命を果たさなければなりません。

    言い換えれば、命の光を持つあなたは人の絶望の暗闇の中に輝きなさい。 試練や困難、思いがけない不幸の出来事のせいで 悩みで苦しむ人のために 希望と慰めの明るいしるしとなりなさい。 何とかして心、力、精神、知恵を尽くして、全人類のために神の救いの協力者、喜びの泉、平和の手、慰めの力となりなさい。 人が神により頼む信頼や神に自分を委ねる力を失っていることをあなたが見分けるなら、すぐ、あなた自身がその人に近寄って、その人のために神に依り頼み執り成しなさい。その人はあなたの兄弟ですから。 そいう訳で、彼に代わって切に神に向かって祈りなさい。 そして愛に満たされた言葉と行いによって、あなたの傍に居るイエスと共に、その兄弟に神の憐れみ深い心をよく現わしなさい。 そうすれば、あなたはクリスマスの神秘に生きる人となり、キリストのようにあなたも 恵みと喜びの泉となるに違いありません。 その時イエスは きっと次のように言われるでしょう。 「あなたは幸いだ。 あなたの光を人々の前に輝かせたからです。 あなたの良い行いを見て、人々はあなたの天の父をあがめるようになりました」(参照マタイ5,16)と。

    クリスマスの輝きと共に、神の神秘の光がいつも私たちの日常生活の歩みを照らしますように。 信仰年に当たって、使徒パウロが述べたように「私たちは既に神の内に生き、動き、存在します」(使徒17,28)。 「生きているのは、もはや私たちではありません。 キリストが私たちの内に生きておられるのです」(ガラティア2,20)。 確かに「私たちの命は、キリストと共に 神の内に隠されています」(コロサイ3,3) 本当に信仰に生きるなら、全てのキリスト者がクリスマスの光の内に、この真理の光を見るはずです。

    最後に、皆様にアビラの聖テレサの言葉をクリスマスのプレセントとして差し上げたいと思います。 「あなたの望みが神を見ることでありますように。 あなたの恐れが神を失うことでありますように。 あなたの苦しみが神を所有しないことでありますように。 あなたの喜びが神に引き寄せられることでありますように。」 私たちの主イエス・キリストによって。 アーメン。

                  

                                      四旬節

          四旬節第一主日   2013217日   グイノ・ジェラール神父

               申命記26,4-10    ローマ10,8-13   ルカ4,1-13

    「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」と父なる神は洗礼を受けながら祈っていたイエスに宣言しました。 聖霊によって荒れ野の中に導かれたのち、イエスは四十日間悪霊の誘惑を受けます。 サタンはイエスと父なる神が一致する愛と信頼の親しい関係を妨げようと無駄に努めます。

    飢えている時に食べるのは当たり前の反応です。 サタンが先ず全ての人が持つこの生きるための基本的な機能を攻撃します。 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と。 イエスはこの誘惑をすぐ退けます。 なぜなら、人が奇跡を行なうことによってではなく、「額に汗を流しながらパンを得る」と神が命じたことを人間になったイエスはよく知っていますから(参照創世記3,19)。 神の似姿に創られた人は食べなければならないなら、まして、完全な人間になるために神の言葉を聞くべきです。 体の飢えが神の言葉への飢えと渇きを引き起こす目的になることを四旬節の断食は私たちに思い起こさせます。 預言者アモスの口を通して、神はこの重大なことをすでに教えました。 「見よ、その日が来れば、わたしは大地に飢えを送る。 それはパンに飢えることもなく水に乾くこともなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス8,11)と。

    第二の誘惑は、神の存在を無視して支配する野望に関することです。 「もし私を拝むなら、一切の権能と繁栄を与えよう」と。 キリストの使命とは、全人類に幸福をもたらすことではないでしょうか?  あらゆる時代と国々の支配者は皆例外なく、暴力、賄賂、妬みを利用しながら、少数部族の全滅と反抗者を滅ぼすことによって、人類の幸福を作る約束をしました。 ソ連、ドイツ、中国、北朝鮮、ベトナム、チリ、キューバ、カンボジアや様々なアフリカの国などで、世界中の人々は死のキャンプや絶滅収容所の恐ろしさを見ました。 神を要らないものとし、神の似姿に創られた人間を滅ぼすこの非人間的、悪魔にふさわしい支配の仕方をイエスは強く退けます。 人間の幸せや永遠の幸福も強制的な方法の結果ではありません。 教会は絶対に強制的に信仰を与えません。 福音もイエスの教えを人に強いません、人々を誘うだけです。 従って、四旬節は柔和と忍耐の方へ私たちを導きます。

    サタンはイエスに上手に三回目の誘惑をします。 「もし神の子なら、あなたははるかに天使たちを超えています。 あなたは重力の規則を無視しても問題にならないと聖書の詩編が(詩編91)断言します。 ですから飛んでみよ」と。 世の初めからサタンが人間をだますために、神の言葉の意味を変化させると言う悪知恵を果たすことを止めませんでした。 しかしこの誘惑は人よりも、神ご自身を試そうとします。 どうしても認めなければならない証拠を要求し、サタンは神を試みようとします。 もちろんイエスは直ぐにこの誘惑を強く退けます。 人間になったイエスはすべてにおいて、人々の条件を分かち合い、絶対に神に奇跡による証拠を要求しません。

    四旬節が始まると、復活への私たちの歩みを妨げている誘惑を発見しましょう。 イエスからこれらの誘惑に打ち勝つ三つの方法を学びましょう。 それは先ず、神の言葉への飢えと渇きを深めるために自分たちの欲望を収めること、次に力と暴力を捨て、柔和と忍耐と和解を勇気を持ってためらいなく選ぶこと、最後に神の摂理が思いがけない時に私たちを救うことを固く信じることです。 絶対に神を試したりせずに、無理に奇跡や特別なしるしや証拠を要求することも避けましょう。 むしろ、神に対して盲目的な信頼を示しましょう。 なぜなら、私たちが洗礼を受けた時に、父なる神は一人ひとりに「あなたはわたしの愛する子」とはっきりと言われたからです。 ですから神を信じて、その素晴らしい愛に生き留まりましょう。 アーメン。

                   


              四旬節第2主日      2013224日   グイノ・ジェラール神父

                創世記15,5-1217-18   フィリピ3,17-4,1  ルカ9,28-36

     「あなたは私の愛する子、私の心に敵う者」と、今日、父なる神はイエスが洗礼を受けた時にもう一度宣言します。 主の変容は、全人類に新しい未来を開きます。 イエスは敵対、妬み、反抗そして死刑の宣告を受けるでしょう。 イエスが歩んだ道は教会の道であり、またイエスに従いたい人の道でもあります。 しかし迫害と死は絶対に私たちの復活を妨げることが出来ません。 確かに、弟子たちは受難の苦しみによって、醜くなった傷だらけのキリストの体を見ました。 しかし3日後、彼らは栄光で包まれている復活されたキリストの体を再発見します。 これこそ、キリストによって神が私たちの体のために準備した未来です。

    イエスの変容は、ご受難に先立っている理由は私たちが神の内に自分の希望をおくことを学ぶためでした。 人生の試練の後でイエスを信じた人は、復活されたキリストの栄光を帯びて変容するでしょう。 主の変容は全人類の歴史の最初と最後を表しています。 私たちの歴史の最初は、旧約の二人の偉大な預言者(モーゼとエリア)を通して示されています。私たちの歴史の最後は、ご自分の血によって新しい永遠の契約を結ぶ変容されたキリストを通して示されています。 と言うのは、使徒パウロが説明しているように、イエスのお蔭で私たちは律法の奴隷の制度から恵みと救いの時へ移され、モーゼの時から聖霊の時へ移された(参照:2コリント6,2)からです。

    誇りを持って使徒ペトロは次のように宣言しました。 「わたしたちの主イエス・キリストの力を知らせるのに、わたしたちは巧みなつくり話を用いたわけではありません。 わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。 聖なる山にイエスと行ったときに」(2ペトロ1,1618)。 使徒パウロは夢中になって自分の希望を叫びます。 「主イエスは私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです(フィリピ3,21)。 ペトロとパウロの証しは、上手に私たちの希望と未来を表しています。キリストの変容はいつか私たちの体が、神の光で覆(おお)われることを保障します。 いくら私たちの体が卑しいものであっても、私たちの体は既に聖霊の神殿であります。 自分の体を見ながら昔ダビデ王は次のように驚いて歌いました。 「わたしを造られたあなたのわざは不思議。 わたしは心からその偉大なわざをたたえる」(詩編139,14)。

    顔とは人間の一部をなすものです。 というのは、変容されたキリストの顔は神の子としての自分のアイデンティティを啓示します。 光輝くキリストの顔は、また父なる神がご自分の子に注ぐ深い愛をも啓示します。 主の変容は結局、人間の体の偉大さを示します。 人は時々、体と魂を対立させます。 しかし、聖書の教えでは人間が体を持つのではなく、人間は体そのものです。 この体は魂と同じような栄光に永遠に与るように召されています。 聖書の教えを悟ったフランスの詩人であるペギー(Charles Pegui)は、次にように書きました。 「復活の時、人の体と魂は永遠の礼拝のために、手を組み合わせた二つの手のようになるでしょう。」

     障害によって自分の体が変化してしまって苦しんでいる人々にキリストのご変容と復活は大きな慰めとなります。 確かに、「イエスは彼らの卑しい体をご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです」(フィリピ3,21)。 ご受難の時、人間の姿を失ったイエスは栄光の体で復活します。 死んでも神の栄光の内に永遠に生き続けるために、信仰はその栄光の体を私たちに与えるのです。 ですから、受けた体のために神に感謝し、この聖霊の神殿である体はいつも元気で清く聖とされるように、出来る限りの努力をしましょう。 最後に父なる神に愛と信頼を示す子としての祈りと賛美が私たちの心から絶えず湧き出るようにイエスに倣いましょう。 アーメン。

              

            四旬節第3主日   201333日  グイノ・ジェラール神父

         出エジプト記3,1-81013-15  1コリント10,1-610-12  ルカ13,1-9

    人々が不幸に落ちいった理由は、彼らの犯した罪のせいだった、とキリストの時代の人々が思い込んでいました。 しかし人間の歴史は、不幸は例外なく同じように聖人にも罪びとにも襲ってくることを教えています。 神はご自分に逆らう者に厳しい罰を下すようなことを絶対に考えません。 むしろ神はご自分の憐れみと赦しを惜しむことなく与えようと急ぎます。 神は悪人の不幸と死を決して望まないで、むしろ悪人が心を変えて、命を得るようになることを喜びます(参照 エゼキエル33,11)。 「わたしは、わたしの民の苦しみを見、彼らの叫びを聞いた。 さあ、私の民を解放するために、私はお前を遣わす」と神はモーセに言われました。 神はすべての人の救いと幸福を望まれます。皆が良い実を結びますように。

    思いがけない出来事や失敗が私たちを襲う時、この好ましくないものを「改心への神の誘い」として、あるいは「新しい出発」をするための神の願いとして受け入れましょう。 不幸が私たちを襲う時に、ある人々は何年間にも渡って同じ苦しみを耐え忍んで、体験している不幸を理解する恵みが私たちに必ず与えられています。 とにかく、幸福も不幸も、すべてを神の手からいただくことを学びましょう。 使徒パウロが進めているように「神に対してはつぶやいてはなりません!」

    今日イエスは私たちに忍耐と緊急の態度を選ぶように招いています。 土に植えられた苗が伸び伸びと大きな木になるために、忍耐と時間が必要であり、同時にこの苗が成長するように、必要な肥料と適当な手入れを早急に与える必要があります。 また、畑の収穫の日まで辛抱強く待たなければならないし、悪天候がその穀物を破壊する前に収穫の為に急がなければなりません。 従って、人が聖なる者になるために、彼の全生涯において忍耐が必要です。 しかし、人は時間を無駄にせずに聖性の方へ走ることも肝心です。

    神は非常に辛抱強く待つと同時に、何でも早く行います。 ご自分の愛する子イエスを与える前に神は何世紀にも渡って準備しました。 ご自分の救いの計画を完成する為にも神はゆっくり走ります。 しかし、今は私たちが急いで「愛の完成に」辿り着くように神は待たずにイエスにおける信仰、聖霊の賜物、教会の秘跡を私たちに与えてくださいます。 神が罰するものは、ただ実を結ばない心の不毛や心の乏しさだけです。

    ヘブライ人は「出エジプトの霊的な意味」を理解しようとしなかったと使徒パウロは説明し、そのことを思い起こさせます。 四十年の間、ヘブライ人が次々と神に逆らって、神の忍耐を使い果たしました。 その結果、皆が砂漠で死にました。 私たちは受けた洗礼の意味と、その洗礼によって委ねられた霊的な使命をよく知っているので、私たちが思いやりのない心を持つ人や実を結ばない人にならならないように、気を付けましょう。

    「ヘブライ人が自分たちの後からついて来ていた霊的な岩の水を飲んでいた、その岩がキリストだった」と聖パウロはコリント人への手紙に書きました。 この霊的な岩は、今も、人生の喜びと試練を通して、また出会う不幸と幸福を通して私たちにずっと伴っています。 ですから、不幸の砂漠の中にいる時には神に無駄につぶやいたり、あまりにも自分のことを嘆き過ぎたりするよりも、むしろ世の終わりまで一緒にいて、毎日私たちに伴う「泉の岩」であるキリストに、信頼をもって向かいましょう。

    圧迫するあらゆる不幸から、イエスは私たちを救いに来ます。 同時に私たちも、自分の内や自分の周りにある悪と不幸に、具体的に戦うようにとイエスは望んでいます。    赦しの秘跡を受けることによって私たちは「勝利の実り」を結ぶことが簡単にできるのです。 何年間にも渡って、自分が犯した罪の内に自分自身を閉じ込める態度は、人を実を結ばない者へと変化させ、そして彼を死に送ります。 信仰年に当たって神の赦しの恵み、聖霊の内に成長する喜び、救い主イエスの親密さの内に生きる幸福を再発見しましょう!  辛抱強い人となって、聖性への歩みを続けましょう!  同時に、一日も早く聖人になるように 精一杯急ぎましょう!  アーメン。

                    


           四旬節第4主日     2013310日    グイノ・ジェラール神父

                ヨシュア5,10-12  2コリント5,17-21  ルカ15,1-311-32

    放蕩息子或いは彼の兄の内に、自分自身を見ることは良いです。 しかしイエスのたとえ話は私たちについてではなく、いつもキリストと父なる神についてよく語っています。 残念ですが、私たちは迷って来た羊、見つけられた一枚の銀貨、或いは良いサマリア人に救われた傷だらけの人のうちに、自分自身を当て嵌める傾向があります。 イエスはたとえ話を通して神の国とその国の成長について、またこの国に招かれた人について語ります。 特に神がご自分の愛と赦しを示すことによって、どのように全ての人の救いを実現するかについて語ります。

    たとえ話の弟を示すために使われている日本語の単語があまりにもピンと来ません。 なぜなら、兄の口から出た侮辱の言葉を借りていますから。 その為に「放蕩息子」ではなく「気前の良い息子」と翻訳した方がいいです。 良い翻訳によって、たとえ話の意味を直ぐ見つけられるからです。 と言うのは「気前の良い息子」は、イエス・キリスト自身で、このたとえ話を通してキリストは自分自身の物語を述べています。

    全くご自分と関係のないこの世界に来るために、イエスは自分の意志で父なる神から遠く離れて来ました。 聖パウロは、フィリピ人への手紙の中でそれをよく説明しました。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえて自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2,6-7)。 「気前の良い息子」であるイエスは、病人を癒し、罪びとを赦し、悪霊を追い出しながら、持っていたもの全てを与えました。 イエスは貧しい人を富ませ、差別された人々に社会的な立場を返し、そしてファリザイ人と徴税人、異邦人と大祭司、律法学者と売春の女の間に一度も差別をしませんでした。 イエスは自分自身を捧げながら自分の命まで全てを皆に与えました。 私たちの不潔なもの全てを担って、異邦人の手に引き渡され、見捨てられ、侮辱され、奴隷と強盗のレベルにまで低くされた上で、イエスはようやく十字架に付けられました。 自分の服まで与えてから、何も受けなかったたとえ話の息子と同様に、イエスは飲ませて下さいと願う時、人々はそれを無視して酸っぱいお酢を彼に与えました。 受難の苦しみによってイエスは、人間の姿を完全に失いました(イザヤ53,3-4)。

    それにも拘わらず、イエスはいつも父なる神のことを考えていました。 自分がどこから来たか忘れずに、早く父の方へ戻りたい強い希望を抱いていました。 イエスは「気前の良い御父」の「気前の良い息子」です。 信仰の目で今日のたとえ話を見れば、自分の家に帰る放蕩息子の帰りは、父なる神の家に戻る神の子イエスの帰宅です。 今日のたとえ話を通して、イエスは今まで 自分が行ったことを説明すると同時に、あらかじめファリザイ人たちに自分の受難、復活と昇天を告げ知らせます。 飢えている、傷ついている、見捨てられはずかしめられた放蕩息子の姿を通して、罪深いしかし あがなわれた全人類が、キリストと共に神の腕に飛び込むことを示されています。 父なる神が御独り子を大急ぎで迎え、直ぐに栄光と誉れで包まれます。 そして父なる神がイエスを自分の右に座らせてから、彼の手に宇宙万物に対する権威を与えました(フィリピ2,9-11)と(マタイ28,18)。

    イエスはまた、たとえ話の兄でもあります。 なぜなら、神に属するものはイエスにも属するものです。 このことを理解したら、私たちはたとえ話の父が長男に言った言葉の意味を解ります。 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。 わたしのものは全部お前のものだ」と。 イエスも父との一致について話しながら、自分が行っている業によって、これについて証しをしました。 「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10,30)とイエスは言われます。 イエスとたとえ話の兄さんとの比較はここで終わります。 なぜなら、兄は祝いの食事を分かち合いたくありません。 イエスが大勢の兄弟姉妹の兄として父の家に入ったのは、私たちを歓迎する為、仕える為、そして私と共に永遠に喜ぶ為です。

    キリストに賛美しましょう。 「私たちを豊かにするために彼は豊かであったにもかかわらず貧しくなったからです」(参照:2コリント8,9)。 父なる神に賛美しましょう。 「 神はキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」( エフェソ1,3)。 天にある御父の家に入らせる為に、いつか、イエスは私たちを探しに戻って来ることを私たちは信じています。 ご自分の愛する子イエスによって、父なる神が与えた霊的な祝福を私たちは天において永遠に味わうことが出来るのです。 ですから、キリストと同じように全ての人の救いと永遠の幸せの為に、私たちが持っているものと自分自身の全てを与える「気前の良い人」となりましょう。 アーメン。
 

              

           四旬節第5主日C年   2013317日     グイノ・ジェラール神父

             イザヤ43,16-21  フィリピの信徒への手紙3,8-14  ヨハネ8,1-11

    兄弟姉妹の皆様 人生において特にキリスト教的な生活においては、過去に拘らないように新たなページを開く必要があります。 「初めからの事を思い出すな。 昔の事を思い巡らすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。」と預言者イザヤの口を借りて神は宣言します。 四旬節の時は、私たちが自分の生き方を変え、心を回心させ、特に過去の古い問題に拘らないようにと強く招いています。 ですから、神が私たちに与えようとしている新しい物事を歓迎するために、私たちの心を整えましょう。

    パウロがキリストとの出会いによって非常に動転し、自分の過去の人生を屑にすぎないものと見なしています。 ファリサイ派の人であったパウロは、イエスと出会う前に、神の前で自分を正しくするために律法に基づいて厳しい生活をしていました。 しかしイエスが彼の惨めさをはっきりと見せましたので、パウロは神の憐みを発見しました。 回心して 新しい人となったパウロは、もはや自分の為に生きるのではなく、キリストの為に生きるようになったので、その結果、彼の福音宣教的な活動はダイナミックであり、バイタリティーに溢れるようになりました。

    ファリサイ派の人々は、イエスのところへ罪の女を連れて来て、イエスに裁くように願います。 ところが、イエスは人々の過去を裁きません。 むしろ人々の眼差しを未来の方へ向かわせます。 イエスは新しい時を開き始める人です。 ですから、裁くためではなく救うために来られました。 イエスは誰にも死刑の宣告を下さずに、すべての人が生きるように自分の命を捧げる人です。 私たちの考え方の狭さで人を裁かないように、イエスは偏見や赦しの拒否に対して、また自分自身の正義の内に閉じこもる事に対して、私たちに厳しく注意させます。

    「昔のことを思い巡らすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」 新しいものを選ぶという神の招きは、私たちの第一の関心事としなければなりません。 しかしファリサイ派の人々の心を持っている私たちは、モーセの同罪刑法という古臭い律法を好みます。 「目には目、歯には歯」即ち「あなたが私にこんな事をしたから それをあなたに返します。」 こんな行い方によると、有罪の人は自分の罪の報いを受けなければなりません。 このような子供っぽい正義は問題を解決するよりも、新しい問題を生み出します。 確かに、この正義のやり方はしばしば人を殺人まで導き、落とし入れます。

    モーセの律法よりも、もっと正しい道をイエスは指し示します。 それは赦しと希望の道です。 10年、20年或いは50年前に行われた行為によってではなく、むしろ現行犯に対して、つまり自分の目の前で行われた過ちについて、私たちの赦しはすぐ与える赦しでなければなりません。 咎める人の説明や罪人の言い訳を待たずに、イエスはすぐにその場で赦しを与えることが明らかです。 罪人が同じ過ちを犯さないように、イエスの赦しは憐れみに満ちた即座の赦しであります。 「行きなさい。 これからは罪を犯してはならない。」とイエスはあっさりと断言します。 このようにして 過去の過ちから解放され、未来の方へイエスは私たちの眼差しを向かわせます。 イエスは決して裁きません。 イエスは希望を与えます。 私たちが直接傷付けられた時でも、 いくらその苦しみが耐え忍び難いものであっても、キリストのように直ぐにそれを赦す恵みと勇気を神に願いましょう。

    イエスははっきりと断言します。 「他人に石を投げる事によって、あなたは自分自身を石で打ち殺す事になっています。」と。 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5,20)。 愛する為、与える為、赦す為、自分自身を捧げる為に私たちは創造されました。 四旬節の終わりに当って、悪い過去のページをめくって、それらを屑にすぎないものと見なしましょう。 罪人が生き、救われるように、愛をもって自分の命を与えたイエスを見習って未来の方を見てみましょう。 イエスを真似ることは肝心なことです。 と言うのは、私たちは「キリストとその復活の力を知り、その苦しみに与かって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達する事ができる」からです。 アーメン。

              

                                 トップページに戻る